カプセルを壊そうというもがき
2008年9月1日 殿方より。 母親に似ていて、母親と仲良しで、母親とそっくりの人生を歩むだけが「母親カプセル」ではありません。こんなふうに親に反抗し、わざと親の禁止を破ったり、親と逆のことをしようとするのも、母離れ、親離れしていないからこそなのです。カプセルから出られず、カプセルの中で暴れまわってもがいているのです。
子どもが親離れしていくときには、親に反抗して違うことをしたりするのが、健全な過程です。
けれども、カプセルが厚くて強固なものであればあるほど、カプセルはずしにもエネルギーがいります。すんなり出ていけず、破壊しなければならないので、すさまじい暴力になることもあるのです。
この例でいえば、中学校の先生をやっている母親も、その母親(H男君とI子さんの祖母)との母親カプセルの中で生きてきたようです。H男くんたちの祖母は利発な娘が誇りでした。自分の希望の星として生きてきて、とうとう学校の先生になってくれた。
彼女は、しょっちゅうH男くんの母親のところに電話してきては、「おまえのところもたいへんだから」「何かすることはないか」というのだそうです。買い物に誘ったりすると、いそいそと飛んできます。
H男くんの母親のほうも、いい大人になった自分にあれこれいう親がうっとうしくてしかたないのですが、会えばわがままが出てしまう。何かというと母親を呼んで用事をいいつけたり、ガミガミ怒ったりしているのです。
そういう母親ですから、自分の子どもに対しても、「自分のアクセサリーとしてりっぱな子ども」であることを求めてしまったのでしょう。自分の教師として安心して生きていくためには、
子どもも「「さすが教師の子」といわれるように育ってくれなければ」困る。教師が自分の子の教育に失敗したら恥ずかしい。教師というのは、その土地では名士扱いです。小さい町であれば、教師の子どもであるだけで、
子どもが親離れしていくときには、親に反抗して違うことをしたりするのが、健全な過程です。
けれども、カプセルが厚くて強固なものであればあるほど、カプセルはずしにもエネルギーがいります。すんなり出ていけず、破壊しなければならないので、すさまじい暴力になることもあるのです。
この例でいえば、中学校の先生をやっている母親も、その母親(H男君とI子さんの祖母)との母親カプセルの中で生きてきたようです。H男くんたちの祖母は利発な娘が誇りでした。自分の希望の星として生きてきて、とうとう学校の先生になってくれた。
彼女は、しょっちゅうH男くんの母親のところに電話してきては、「おまえのところもたいへんだから」「何かすることはないか」というのだそうです。買い物に誘ったりすると、いそいそと飛んできます。
H男くんの母親のほうも、いい大人になった自分にあれこれいう親がうっとうしくてしかたないのですが、会えばわがままが出てしまう。何かというと母親を呼んで用事をいいつけたり、ガミガミ怒ったりしているのです。
そういう母親ですから、自分の子どもに対しても、「自分のアクセサリーとしてりっぱな子ども」であることを求めてしまったのでしょう。自分の教師として安心して生きていくためには、
子どもも「「さすが教師の子」といわれるように育ってくれなければ」困る。教師が自分の子の教育に失敗したら恥ずかしい。教師というのは、その土地では名士扱いです。小さい町であれば、教師の子どもであるだけで、
母親の願望を満たす娘たち
2008年8月31日 殿方より。 一見、さっそうと自立したキャリアウーマンを演じながら、やはり母親カプセルの中で生きている娘たちもいます。
現代の20代前後の女性たちの母親は、ちょうど女性の生き方が変わり始めた頃に青春を生きてきました。それまでの女性は、子どものためにいきることが当たり前で、たいした疑問は出てこなかったのです。ところが、ここ三十年ほどの間に、多くの女性が大学に進学するようになり、職業を持ち、自由恋愛で夫を選ぶようになりました。
フェミニズム運動が盛んになり、女性も自分自身の目標を持って「自立」して生きていくことが奨励されました。けれども、彼女の親の世代は、夫につくし、子どもにつくす、伝統的な妻・母の役割を当然と思っている世代です。
そこで彼女たちは、一方では社会で自分の能力を発揮することを理想として、もう一方では伝統的な女性の役割を果たすことが当然のように期待される、という迷いの中に置かれました。多くの女性たちは、結婚して妻・母親の役割をとったのですが、一時期は社会である程度までがんばった人たちです。夫のために夕飯をつくって待ち、夫の転勤とともに地方を転々とし、夫と子どものためにつくして、それでも経済的には「養われている」専業主婦という身の上に疑問を感じたのは当然だったでしょう。
こういう主婦の中から「キッチンドリンカー」が生まれました。彼女たちは、自分の生活の空虚さに気づき、その寂しさを埋めようとアルコールにおぼれたのです。
キッチンドリンカーにならなかった母親たちもまた、家庭内に緊張を生み出しました。彼女たちは、その空虚感や抑うつの責任を夫にとってもらおうとしたのです。
「なぜ、私だけが家の中でこんなつまらないことをしていなければならないの?」「あのとき結婚していなければ、私ももっとキャリアを追求できたのに」と、夫に怒りを向けました。
夫のほうは、こうした妻たちの気持ちが理解できず、家で楽に生きている{ように夫たちには見える}くせに、疲れて帰ってきた自分に愚痴をいう妻がうっとうしい。そこで無視したりほったらかしにしたり、妻から逃げて外で遊んだり、怒鳴りつけて黙らせたり、男がどんなにたいへんか、「女の甘さ」を説教してすまそうとしました。
夫と面と向かってコミュニケーションすることをあきらめた妻たちは、娘を味方につけようとし、「不幸な人生」の愚痴をいい、人生相談するようになったのです。ここから、今までの述べてきたような母親カプセルが生まれるのですが、この娘たちの中には、母親が夢見て果たせなかった社会的野心を,代わりに果たしてやろうという健気な娘も生まれてきました。
母親たちの時代には考えられなかったような職種が、現代の女性たちには開かれています。以前に比べれば女性の昇進も多くなり、華やかな独身キャリアウーマンとしてがんばる女性たちが増えています。こうした女性たちの中には、「不幸な」母親の愚痴を聞いて育ち、「私は、家の中だけに縛られて、あんなふうになるのはイヤだ」と、母親の生き方への反発から仕事をしている人も多いでしょう。
彼女たちは、母親の無意識の願望を満たしているので、母親たちも娘のさっそうとした姿を見ることがうれしいのです。世間向けには、「うちの娘も、いつまでも仕事、仕事で結婚もしないで困ったもので」などといってみせながら、内心、さほど娘に結婚してほしいとも思っていない母親も多いのではないでしょうか。
娘たちは、一方では自立したキャリアウーマンでなければならず、一方では母親の望みであるキャリアウーマンであり続けるという依存関係のカプセルからぬけられない。彼女たちもまた、
本当に「自分自身のための」人生を生きているとはいえないのです。
このような娘たちが社会でいきづまって母親の願望を満たせなくなったとき、過食症・拒食症などの摂食障害が起こったりします。こうした病気も、カプセルにひびを入れる、カプセルはずしの一貫なのです。
現代の20代前後の女性たちの母親は、ちょうど女性の生き方が変わり始めた頃に青春を生きてきました。それまでの女性は、子どものためにいきることが当たり前で、たいした疑問は出てこなかったのです。ところが、ここ三十年ほどの間に、多くの女性が大学に進学するようになり、職業を持ち、自由恋愛で夫を選ぶようになりました。
フェミニズム運動が盛んになり、女性も自分自身の目標を持って「自立」して生きていくことが奨励されました。けれども、彼女の親の世代は、夫につくし、子どもにつくす、伝統的な妻・母の役割を当然と思っている世代です。
そこで彼女たちは、一方では社会で自分の能力を発揮することを理想として、もう一方では伝統的な女性の役割を果たすことが当然のように期待される、という迷いの中に置かれました。多くの女性たちは、結婚して妻・母親の役割をとったのですが、一時期は社会である程度までがんばった人たちです。夫のために夕飯をつくって待ち、夫の転勤とともに地方を転々とし、夫と子どものためにつくして、それでも経済的には「養われている」専業主婦という身の上に疑問を感じたのは当然だったでしょう。
こういう主婦の中から「キッチンドリンカー」が生まれました。彼女たちは、自分の生活の空虚さに気づき、その寂しさを埋めようとアルコールにおぼれたのです。
キッチンドリンカーにならなかった母親たちもまた、家庭内に緊張を生み出しました。彼女たちは、その空虚感や抑うつの責任を夫にとってもらおうとしたのです。
「なぜ、私だけが家の中でこんなつまらないことをしていなければならないの?」「あのとき結婚していなければ、私ももっとキャリアを追求できたのに」と、夫に怒りを向けました。
夫のほうは、こうした妻たちの気持ちが理解できず、家で楽に生きている{ように夫たちには見える}くせに、疲れて帰ってきた自分に愚痴をいう妻がうっとうしい。そこで無視したりほったらかしにしたり、妻から逃げて外で遊んだり、怒鳴りつけて黙らせたり、男がどんなにたいへんか、「女の甘さ」を説教してすまそうとしました。
夫と面と向かってコミュニケーションすることをあきらめた妻たちは、娘を味方につけようとし、「不幸な人生」の愚痴をいい、人生相談するようになったのです。ここから、今までの述べてきたような母親カプセルが生まれるのですが、この娘たちの中には、母親が夢見て果たせなかった社会的野心を,代わりに果たしてやろうという健気な娘も生まれてきました。
母親たちの時代には考えられなかったような職種が、現代の女性たちには開かれています。以前に比べれば女性の昇進も多くなり、華やかな独身キャリアウーマンとしてがんばる女性たちが増えています。こうした女性たちの中には、「不幸な」母親の愚痴を聞いて育ち、「私は、家の中だけに縛られて、あんなふうになるのはイヤだ」と、母親の生き方への反発から仕事をしている人も多いでしょう。
彼女たちは、母親の無意識の願望を満たしているので、母親たちも娘のさっそうとした姿を見ることがうれしいのです。世間向けには、「うちの娘も、いつまでも仕事、仕事で結婚もしないで困ったもので」などといってみせながら、内心、さほど娘に結婚してほしいとも思っていない母親も多いのではないでしょうか。
娘たちは、一方では自立したキャリアウーマンでなければならず、一方では母親の望みであるキャリアウーマンであり続けるという依存関係のカプセルからぬけられない。彼女たちもまた、
本当に「自分自身のための」人生を生きているとはいえないのです。
このような娘たちが社会でいきづまって母親の願望を満たせなくなったとき、過食症・拒食症などの摂食障害が起こったりします。こうした病気も、カプセルにひびを入れる、カプセルはずしの一貫なのです。
両親の夫婦関係は繰り返される
2008年8月31日 殿方より。 独身のうちは子どもで、結婚したら一人前、という考えもありますが、結婚してからも母親カプセルの中で生きている人もたくさんいます。
夫と新しい関係をつくっていくのはなかなか労力がいりますから、それよりも生まれたときから慣れてる親しんだ母親との関係が楽です。ガミガミやっていて、はためからは仲良さそうに見えなくても、本人どうしは「ああいえばこう文句をいってくる」という「あうんの呼吸」があり、そのパターンどおりにやっているのです。
娘と母親の関係は密接で、自分の夫よりも母親のほうを向いています。前にの述べた「マスオさん結婚」もそうですし、結婚して家を出ていても、母親が一番の相談相手、という娘はいくらでもいます。
男女関係、恋愛関係というのは、ほとんんどが親との関係の繰り返しです。ですから、親との関係の歪みが大きい。恋愛でトラブルを繰り返し、「なぜいつもこうなってしまうんだろう」と悩んでいる人は、一度、親との関係を振り返ってみるといいでしょう。自分にとっては、生まれ育った家庭環境や親との関係が当たり前なので、とくにおかしいは思わなくても、他人から見るとかなりおかしいところがあるかもしれません。困っていなければ別にかまわないのですが、問題が起こってきたときには、もとの家族関係に問題の根があると考え、両親との関係から修復をはかったほうがいいのです。
問題が大きなものであれ、さほどの問題にならないことであれ、夫婦関係を見ると、自分の両親の関係を繰り返していることが多いものなのです。この繰り返しのパターンが似ているほど、親離れができていないということになります。
夫と新しい関係をつくっていくのはなかなか労力がいりますから、それよりも生まれたときから慣れてる親しんだ母親との関係が楽です。ガミガミやっていて、はためからは仲良さそうに見えなくても、本人どうしは「ああいえばこう文句をいってくる」という「あうんの呼吸」があり、そのパターンどおりにやっているのです。
娘と母親の関係は密接で、自分の夫よりも母親のほうを向いています。前にの述べた「マスオさん結婚」もそうですし、結婚して家を出ていても、母親が一番の相談相手、という娘はいくらでもいます。
男女関係、恋愛関係というのは、ほとんんどが親との関係の繰り返しです。ですから、親との関係の歪みが大きい。恋愛でトラブルを繰り返し、「なぜいつもこうなってしまうんだろう」と悩んでいる人は、一度、親との関係を振り返ってみるといいでしょう。自分にとっては、生まれ育った家庭環境や親との関係が当たり前なので、とくにおかしいは思わなくても、他人から見るとかなりおかしいところがあるかもしれません。困っていなければ別にかまわないのですが、問題が起こってきたときには、もとの家族関係に問題の根があると考え、両親との関係から修復をはかったほうがいいのです。
問題が大きなものであれ、さほどの問題にならないことであれ、夫婦関係を見ると、自分の両親の関係を繰り返していることが多いものなのです。この繰り返しのパターンが似ているほど、親離れができていないということになります。
ほうっておけない親の存在
2008年5月29日 殿方より。 K子さんは、完全に親の世話を受けている状態なのですが、本人の意識では、「自分がいないと、この家がだめになる」と思っています。自分が病気でもやっていれば、かろうじて家族がつながっているけれど、そうでなければバラバラになって、両親も離婚してしまうかもしれないと思っている。
父親はパチンコが趣味で、自分の気晴らしを持っています。でも、母親には、何もない。両親の間には会話もありません。「お母さんは自分たち子どもを育てることで人生のほとんどを費やしてきたのだから、かわいそう。だからお母さんを支えてあげなければいけない」。そう思うとパニックになって、過食するほかなくなってしまうのです。
K子さんはいろいろ問題を起こしているのですが、長い目で見れば、体を張って両親を治療の場に引き出し、やはり歪んでいた両親の関係もいっしょに治療しようとしているのでしょう。K子さんが私のもとで治療を受け始めてから、母親であるJ子さんも、自分の夫婦関係や両親との関係を改めて考えるようになりました。「私たち夫婦は、子どもたちにとってなぜかほうっておけない心配な存在らしい。何が問題だったのだろうか」と。
そうやって考え直してみると、J子さんと夫もまじめには生きてきましたが、心の豊かさがなかった。J子さん自身、ずっと「お母さんはかわいそう」と母親を助け、「良い子」をやってきた。母親を安心させるために父親と同じ鉄道員と結婚した。けれども、夫とは語り合うこともない。夫婦関係は干からびていたといっていいでしょう。その干からびが娘の身体に表現されるようになる。J子さん夫婦は、娘の病気のおかげで、初めて面と向かって話し合ったり、二人の関係を考えたりするようになったのです。
そうしてみると、J子さんは、自分の母親とじつによく似た生活をしていることに気ずきました。娘であるK子さんから、「かわいそう」と思われながら生きている。自分では、自分の生活がさほど「かわいそう」とも思っていなかった。もしかしたら、自分の母親もそうだったのかもしれない。
J子さんは、「お母さんがかわいそう」と思い、懸命に母親を助けてきたつもりでした。けれども、母親は案外、父親に殴られても、「男なんてこんなもんだ」
父親はパチンコが趣味で、自分の気晴らしを持っています。でも、母親には、何もない。両親の間には会話もありません。「お母さんは自分たち子どもを育てることで人生のほとんどを費やしてきたのだから、かわいそう。だからお母さんを支えてあげなければいけない」。そう思うとパニックになって、過食するほかなくなってしまうのです。
K子さんはいろいろ問題を起こしているのですが、長い目で見れば、体を張って両親を治療の場に引き出し、やはり歪んでいた両親の関係もいっしょに治療しようとしているのでしょう。K子さんが私のもとで治療を受け始めてから、母親であるJ子さんも、自分の夫婦関係や両親との関係を改めて考えるようになりました。「私たち夫婦は、子どもたちにとってなぜかほうっておけない心配な存在らしい。何が問題だったのだろうか」と。
そうやって考え直してみると、J子さんと夫もまじめには生きてきましたが、心の豊かさがなかった。J子さん自身、ずっと「お母さんはかわいそう」と母親を助け、「良い子」をやってきた。母親を安心させるために父親と同じ鉄道員と結婚した。けれども、夫とは語り合うこともない。夫婦関係は干からびていたといっていいでしょう。その干からびが娘の身体に表現されるようになる。J子さん夫婦は、娘の病気のおかげで、初めて面と向かって話し合ったり、二人の関係を考えたりするようになったのです。
そうしてみると、J子さんは、自分の母親とじつによく似た生活をしていることに気ずきました。娘であるK子さんから、「かわいそう」と思われながら生きている。自分では、自分の生活がさほど「かわいそう」とも思っていなかった。もしかしたら、自分の母親もそうだったのかもしれない。
J子さんは、「お母さんがかわいそう」と思い、懸命に母親を助けてきたつもりでした。けれども、母親は案外、父親に殴られても、「男なんてこんなもんだ」
「お母さんはかわいそう」がキ-ワ-ドの一家
2008年5月23日 殿方より。 J子さんの例を見てみましょう。J子さんは、生まれてすぐ鉄道員だった父親を亡くしました。交通事故でした。父親が亡くなって二〜三年後、母親は再婚しましたが、この再婚相手にあまり働きが無かったので、女手ひとつで家計を切り盛りして、三人の子どもを育てあげ増した。新しい父親は短気で、よく母親を怒鳴ったり、虐げていました。そんな中、思春期に入ったばかりのJ子さんの兄である長男を亡くします。
J子さんは、そんな不幸続きの母親を助けて、必死に「良い子」をやってきました。そして、亡くなった父親と同じ鉄道員の男性との見合い話が持ち上がり、結婚します。子どもを二人もうけました。彼女は三〇代の初めに自律神経失調症になり、子どもに当り散らすようになります。
J子さんは、じつは、物心つく頃からいつも母親に叱られ、ぶたれていました。母親はいつも夫に殴られていたので、自分より弱い子どもをぶつようになったのでしょう。けれども、J子さんは「ひどい母親」とも思わず、「お母さんはかわいそう。お父さんに死なれて、新しいお父さんに殴られても、いつも一所懸命働いて私たちを育ててくれた」と思っているのです。
そして、J子さんの娘のK子さんも、母親であるJ子さんを同じような目でみています。K子さんは子どもの頃、J子さんの不機嫌で散々当り散らされていたのに、「お母さんはかわいそう、私が助けてあげなくちゃ」と思っている。この家族のキーワードは「お母さんはかわいそう」なのです、
K子さんは実家の近くに就職します。自宅から通って家族の面倒をみようという健気な心がけからでした。長女である自分ががんばって妹もかばってきました。ところが妹はサッサと嫁にいってしまい、いよいよ自分がひとりで両親の面倒を見なければならなくなった。その頃から急に無気力になって、体が動かなくなってしまう。そして、大量に食べて吐く、過食症が始まります。食べていないと頭の中がパニックになり、食べているときだけは落ち着くのです。
いろいろな病院に通ったのですが、少しもよくならず、とうとう親に連れられて東京の麻布にある私のクリニックにまでやってきました。けれども、「自分がなんで生きているのかわからない、治らなければならない理由もわからない」といって、治療は拒否します。親は、K子さんを東京に置いて郷里に帰ってしまいました。私は、「あなたの好きなようにしていいんですよ」としかいわないことにしました。すると、K子さんはときどきヨロヨロとクリニックへやってくるようになりました。でも他の患者さんの財布を盗ってしまうという別の問題を起こすようになりました。
J子さんは、そんな不幸続きの母親を助けて、必死に「良い子」をやってきました。そして、亡くなった父親と同じ鉄道員の男性との見合い話が持ち上がり、結婚します。子どもを二人もうけました。彼女は三〇代の初めに自律神経失調症になり、子どもに当り散らすようになります。
J子さんは、じつは、物心つく頃からいつも母親に叱られ、ぶたれていました。母親はいつも夫に殴られていたので、自分より弱い子どもをぶつようになったのでしょう。けれども、J子さんは「ひどい母親」とも思わず、「お母さんはかわいそう。お父さんに死なれて、新しいお父さんに殴られても、いつも一所懸命働いて私たちを育ててくれた」と思っているのです。
そして、J子さんの娘のK子さんも、母親であるJ子さんを同じような目でみています。K子さんは子どもの頃、J子さんの不機嫌で散々当り散らされていたのに、「お母さんはかわいそう、私が助けてあげなくちゃ」と思っている。この家族のキーワードは「お母さんはかわいそう」なのです、
K子さんは実家の近くに就職します。自宅から通って家族の面倒をみようという健気な心がけからでした。長女である自分ががんばって妹もかばってきました。ところが妹はサッサと嫁にいってしまい、いよいよ自分がひとりで両親の面倒を見なければならなくなった。その頃から急に無気力になって、体が動かなくなってしまう。そして、大量に食べて吐く、過食症が始まります。食べていないと頭の中がパニックになり、食べているときだけは落ち着くのです。
いろいろな病院に通ったのですが、少しもよくならず、とうとう親に連れられて東京の麻布にある私のクリニックにまでやってきました。けれども、「自分がなんで生きているのかわからない、治らなければならない理由もわからない」といって、治療は拒否します。親は、K子さんを東京に置いて郷里に帰ってしまいました。私は、「あなたの好きなようにしていいんですよ」としかいわないことにしました。すると、K子さんはときどきヨロヨロとクリニックへやってくるようになりました。でも他の患者さんの財布を盗ってしまうという別の問題を起こすようになりました。
ほうっておけない親の存在
2008年5月21日 殿方より。 Kこさんは、完璧に親の世話を受けている状態なのですが、本人の意識では、「自分がいないと、この家はダメになる」と思っています。自分が病気でもやっていれば、かろうじて家族がつながっているけれど、そうでなければバラバラになって、両親も離婚してしまうかもしれないと思っている。
父親はパチンコが趣味で、自分の気晴らしにを持っています。でも、母親には何もない。両親の間には会話もありません。「お母さんは自分のたちを育てることで人生のほとんどを費やしてきたのだから、かわいそう。だからお母さんを支えてあげなければいけない」。そう思うとパニックになって、過食するほかなくなってしまうのです。
K子さんはいろいろ問題を起こしているのですが、長い目で見れば、体を張って両親を治療の場に引き出し、やはり歪んでいた両親の関係もいっしょに治療しようとしているのでしょう。K子さんが私のもとで治療を受け始めてから、母親であるJ子さんも、自分の夫婦関係や両親との関係を改めて考えるようになりました。「私たち夫婦は、子どもたちにってなぜかほうっておけない心配な存在らしい。何が問題だったのだろうか」と。
そうやって考え直してみると、J子さんと夫もまじめには生きてきましたが、心の豊かさがなかった。J子さん自身、ずっと「お母さんはかわいそう」と母親をたすけ、「良い子」をやってきた。母親を安心させるために父親と同じ鉄道員と結婚した。けれども、夫とは語り合うこともない。夫婦関係は干からびていたといっていいでしょう。その干からびが娘の身体に表現されるようになる。J子さん夫婦は、娘の病気のおかげで、初めて面と向かって話し合ったり、二人の関係を考えたりするようになったのです。
そうしてみると、J子さんは、自分の母親とじつによく似た生活をしていることに気づきました。娘であるK子さんから、「かわいそう」と思われながら生きている。自分では、自分の生活がさほど「かわいそう」とも思っていなかった。もしかしたら、自分の母親もそうだったのかもしれない。
J子さんは、「お母さんがかわいそう」と思い、懸命に母親を助けてきたつもりでした。けれども、母親は案外、父親に殴られても、「男はそんなものだ」くらいにしか思っていなかったのかもしれない。「早くらくにをさせてあげたい」と思っていたけれど、そんな必要はなかったのかもしれない。自分が幸せになりたければ、自分でなんとかしていければいいのだから。
父親はパチンコが趣味で、自分の気晴らしにを持っています。でも、母親には何もない。両親の間には会話もありません。「お母さんは自分のたちを育てることで人生のほとんどを費やしてきたのだから、かわいそう。だからお母さんを支えてあげなければいけない」。そう思うとパニックになって、過食するほかなくなってしまうのです。
K子さんはいろいろ問題を起こしているのですが、長い目で見れば、体を張って両親を治療の場に引き出し、やはり歪んでいた両親の関係もいっしょに治療しようとしているのでしょう。K子さんが私のもとで治療を受け始めてから、母親であるJ子さんも、自分の夫婦関係や両親との関係を改めて考えるようになりました。「私たち夫婦は、子どもたちにってなぜかほうっておけない心配な存在らしい。何が問題だったのだろうか」と。
そうやって考え直してみると、J子さんと夫もまじめには生きてきましたが、心の豊かさがなかった。J子さん自身、ずっと「お母さんはかわいそう」と母親をたすけ、「良い子」をやってきた。母親を安心させるために父親と同じ鉄道員と結婚した。けれども、夫とは語り合うこともない。夫婦関係は干からびていたといっていいでしょう。その干からびが娘の身体に表現されるようになる。J子さん夫婦は、娘の病気のおかげで、初めて面と向かって話し合ったり、二人の関係を考えたりするようになったのです。
そうしてみると、J子さんは、自分の母親とじつによく似た生活をしていることに気づきました。娘であるK子さんから、「かわいそう」と思われながら生きている。自分では、自分の生活がさほど「かわいそう」とも思っていなかった。もしかしたら、自分の母親もそうだったのかもしれない。
J子さんは、「お母さんがかわいそう」と思い、懸命に母親を助けてきたつもりでした。けれども、母親は案外、父親に殴られても、「男はそんなものだ」くらいにしか思っていなかったのかもしれない。「早くらくにをさせてあげたい」と思っていたけれど、そんな必要はなかったのかもしれない。自分が幸せになりたければ、自分でなんとかしていければいいのだから。
「かわいそう」はずしが「母親カプセル」はずし
2008年5月20日 殿方より。 K子さんも同じです。「お母さんがかわいそう」と思うヒマがあったら、自分のほうがかわいそうだと思ったほうがいい。母親によって麻布に置き去りにされて、過食するためのお金を別の患者さんの財布から盗んでいる。そのほうがよっぽどみじめです。母親を助ける前に、自分で自分を助けてあげたほうがいい。
「お母さんもいろいろあってかわいそうだったけど、でもそれはお母さんの人生だよね。私には私の人生があるのだから、まず自分の幸せを考えなくては」と割り切れれば、病気になどならないのです。ところが、母親と自分が一体化しているので、母親の幸せが私の幸せになってきます。両親が幸せになってくれないと、自分も幸せになれない。どこかに「両親の関係を修復しよう」という考えがあって、だからこそ病気になるのです。
K子さん自身も、あまり自分のことをかまってくれない夫と結婚しています。両親の関係になど関わらず、自分の夫婦関係を修復すればいいのですが、自分の中の「母親」と「私」が分かちがたくなっているので、どちらか片方だけ修復しようとしてもうまくいきません。わざわざ家族のことなどかえりみない男性を選んで、自分のみじめさを温存し、子どもに同情される「かわいそうな母親」への道をまっすぐ歩んでいたわけです。
もしも自分を大事にしてくれ、「キミの好きなことをやっていいよ」などという男性と結婚してしまったら、「お母さんがかわいそう」一家の道と違ってしまいます。住み慣れた母親カプセルの世界から出ルことになりますから、不安でたまらないのです。
自分の好きなことを中心の生き方をすると、なんだかものすごくわがままで、ぜいたくしているよう罪悪感にかられ、自分を責めたくなってしまう。まず、両親が仲良くなって、母親が不幸でなくなってくれないと、自分の幸せを追求する気持ちになれない。そこで病気になっているのです。
この一家の場合は、「お母さんはかわいそう」の「かわいそうはずし」をしていくことが母親のカプセルはずしであり、治療につながっていきます。
私の中の「私」、私の中の「母」を分けていくことが、親の生き方にとらわれず、自分自身の人生を形づくる能力につながるのです。
「お母さんもいろいろあってかわいそうだったけど、でもそれはお母さんの人生だよね。私には私の人生があるのだから、まず自分の幸せを考えなくては」と割り切れれば、病気になどならないのです。ところが、母親と自分が一体化しているので、母親の幸せが私の幸せになってきます。両親が幸せになってくれないと、自分も幸せになれない。どこかに「両親の関係を修復しよう」という考えがあって、だからこそ病気になるのです。
K子さん自身も、あまり自分のことをかまってくれない夫と結婚しています。両親の関係になど関わらず、自分の夫婦関係を修復すればいいのですが、自分の中の「母親」と「私」が分かちがたくなっているので、どちらか片方だけ修復しようとしてもうまくいきません。わざわざ家族のことなどかえりみない男性を選んで、自分のみじめさを温存し、子どもに同情される「かわいそうな母親」への道をまっすぐ歩んでいたわけです。
もしも自分を大事にしてくれ、「キミの好きなことをやっていいよ」などという男性と結婚してしまったら、「お母さんがかわいそう」一家の道と違ってしまいます。住み慣れた母親カプセルの世界から出ルことになりますから、不安でたまらないのです。
自分の好きなことを中心の生き方をすると、なんだかものすごくわがままで、ぜいたくしているよう罪悪感にかられ、自分を責めたくなってしまう。まず、両親が仲良くなって、母親が不幸でなくなってくれないと、自分の幸せを追求する気持ちになれない。そこで病気になっているのです。
この一家の場合は、「お母さんはかわいそう」の「かわいそうはずし」をしていくことが母親のカプセルはずしであり、治療につながっていきます。
私の中の「私」、私の中の「母」を分けていくことが、親の生き方にとらわれず、自分自身の人生を形づくる能力につながるのです。
第三章 「親教」の信者たち
2008年5月17日 殿方より。「インナーマザー」に支配された心 オウム真理教が話題になったとき、「マインドコントロール」という言葉が流行りました。
オウム真理教の信者たちは、自分で考える自由を失い、オウムの教義に心を支配され、乗っ取られた状態にいました。信者でない人たちにとってみれば、なぜあのような教義(ドグマ)を信じ、殺人まで犯すことをなんとも思わないでいたのか不思議に思います。
けれども私たちは、自分の心は完全に自由で、何ものにもコントロールされていないといいきれるでしょうか。第二章で見てきたように、自分の意志で結婚相手を選び、自分の意志で仕事を選んだように思っていても、案外、自分の心の中の何ものかに支配されていることもあるのです。
私たちは、生まれて以来、周囲からいろいろなことを吸収して成長していきます。
「ああいう考え方もある」
「こういう道をとることもできる、こちらのやり方でもよい」
と、さまざまな選択肢の中から自分が選んだのならそれでよいのです。
自分の中で信じるドグマがあっても、状況に応じてはそれを壊してみたり、逃れることもできる。ひとつのドグマでいきづまってきたら、別のドグマに組替える。そういう自由を持っていれば、「支配されている」とはいいません。
けれども、「これしかない」「こうするしかない」というひとつのドグマにとらわれているなら、「マインドコントロール」されているといえます。自分にとって都合の悪い状況や危険なことになっても、まだそれにこだわり、その考えから逃れられません。そんな状況からは脱してしまったほうがずっと楽なのに、固執し続けることによって息苦しい人生を続けてしまう。
これは、心の中にいる母親、「インナーマザー」(内なる母)に支配されている状態なのです。
インナーマザーは、実際の母親とは少し違います。親そのものというより「世間様」といってよいかもしれません。というのは、母親も父親も、「自分の」考えで子どもを教育する前に、「世間様」にひれふしている場合が多いからです。自分の本音では「そのくらいいいんじゃないか」と思っても、「世間様」に後ろ指さされないよう、「世間様」に恥ずかしくないよう、「そんなことをするとご近所に笑われるから、してはいけません」としつける。「良い子母親」をやっているわけですが、子どもも親の意向を汲み取り、「世間様」を取り入れるようになります。親が考えるであろう恐れや不安を、子どもは自分の恐れや不安として取り入れるようになるのです。
こうして親と同様、「世間様」にひれふす子どもができあがります。彼らにとって「世間様」は教祖なのです。教祖に従うように親が子どもを躾(しつけ)という名目で支配してしまいます。
これを私は「親教」と呼んでいます。
親との関係をこの観点から見ていきましょう。あなたも気がつかないうちに、「親教」のマインドコントロールを受けているかもしれません。
オウム真理教の信者たちは、自分で考える自由を失い、オウムの教義に心を支配され、乗っ取られた状態にいました。信者でない人たちにとってみれば、なぜあのような教義(ドグマ)を信じ、殺人まで犯すことをなんとも思わないでいたのか不思議に思います。
けれども私たちは、自分の心は完全に自由で、何ものにもコントロールされていないといいきれるでしょうか。第二章で見てきたように、自分の意志で結婚相手を選び、自分の意志で仕事を選んだように思っていても、案外、自分の心の中の何ものかに支配されていることもあるのです。
私たちは、生まれて以来、周囲からいろいろなことを吸収して成長していきます。
「ああいう考え方もある」
「こういう道をとることもできる、こちらのやり方でもよい」
と、さまざまな選択肢の中から自分が選んだのならそれでよいのです。
自分の中で信じるドグマがあっても、状況に応じてはそれを壊してみたり、逃れることもできる。ひとつのドグマでいきづまってきたら、別のドグマに組替える。そういう自由を持っていれば、「支配されている」とはいいません。
けれども、「これしかない」「こうするしかない」というひとつのドグマにとらわれているなら、「マインドコントロール」されているといえます。自分にとって都合の悪い状況や危険なことになっても、まだそれにこだわり、その考えから逃れられません。そんな状況からは脱してしまったほうがずっと楽なのに、固執し続けることによって息苦しい人生を続けてしまう。
これは、心の中にいる母親、「インナーマザー」(内なる母)に支配されている状態なのです。
インナーマザーは、実際の母親とは少し違います。親そのものというより「世間様」といってよいかもしれません。というのは、母親も父親も、「自分の」考えで子どもを教育する前に、「世間様」にひれふしている場合が多いからです。自分の本音では「そのくらいいいんじゃないか」と思っても、「世間様」に後ろ指さされないよう、「世間様」に恥ずかしくないよう、「そんなことをするとご近所に笑われるから、してはいけません」としつける。「良い子母親」をやっているわけですが、子どもも親の意向を汲み取り、「世間様」を取り入れるようになります。親が考えるであろう恐れや不安を、子どもは自分の恐れや不安として取り入れるようになるのです。
こうして親と同様、「世間様」にひれふす子どもができあがります。彼らにとって「世間様」は教祖なのです。教祖に従うように親が子どもを躾(しつけ)という名目で支配してしまいます。
これを私は「親教」と呼んでいます。
親との関係をこの観点から見ていきましょう。あなたも気がつかないうちに、「親教」のマインドコントロールを受けているかもしれません。
世間様にひれふす「親教」の信者たち
2008年5月16日 殿方より。「親教」の唱える教義には、たとえば、「人様に迷惑をかけてはいけません」「世間並みからおちこぼれないようにしなさい」「悪いことをしてはいけません」「働かざる者、食うべからず」
などがあります。「世間並み」ということが大切なので、年齢が重視されます。「その年で」というような考え方です。
主義主張には「イズム」ガつきます。キリスト教はクリスチャニズム、共産主義はコミュニズムといいますが、世界中の子どもは、まず親にひきこまれてペアレンティズム(親教)の信者となります。
子どもにとって親は神様です。親教の信者にならなければ、その家族では生きていけません。
けれども、成長すれば親の考えとは違うところも出てきます。別の考えも取り入れ、自然に自分の考えを形づくり、親の世界からぬけ出してひとりの大人となっていきます。ところが、
などがあります。「世間並み」ということが大切なので、年齢が重視されます。「その年で」というような考え方です。
主義主張には「イズム」ガつきます。キリスト教はクリスチャニズム、共産主義はコミュニズムといいますが、世界中の子どもは、まず親にひきこまれてペアレンティズム(親教)の信者となります。
子どもにとって親は神様です。親教の信者にならなければ、その家族では生きていけません。
けれども、成長すれば親の考えとは違うところも出てきます。別の考えも取り入れ、自然に自分の考えを形づくり、親の世界からぬけ出してひとりの大人となっていきます。ところが、
「親教」に強く支配された家族の特徴
2008年5月15日 殿方より。 あなたは、生きにくさや抑うつ感、無気力などを感じていないでしょうか。友人がたくさんいても寂しさから逃げられなかったり、忙しくても退屈な自分を感じていないでしょうか。いつも同じ問題でわずらわされていたり、これらどう生きていけばいいのかイメ-ジがわかず、いきづまってはいないでしょうか。
そんな人は、「親教」の教義にとらわれ、支配されているのです。新興宗教に入っていようがいまいが、ふるまいや態度はよく似ています。
オウム真理教の信者たちが、よくテレビに出ていた頃、私は「なんだか、私のところにきている患者さんたちとそっくりだな」と思ったものです。こういう人たちを私は「神を求める若者」と呼んでいます。
第一章で触れた「機能不全家族」とは、この「親教」に強く支配された家族です。そこには、全体主義国家やカルトによく似たシステムがみられます。
たとえば、機能不全家族には、「強固なル-ル」があります。「お父さんがお酒を飲んでお母さんをなぐったことは、他の人にしゃべってはいけない」というようなル-ルです。これは、「家族に共有されている秘密」にもつながります。
又、家族に他人が入り込むことに抵抗します。風通しが悪いのです。たくさんの人が遊びにきたり、他の家族のもとへ遊びに行く、というオ−プンな雰囲気ではありません。反対に家族どうしの結びつきは強く、それぞれのプライベ-トがありません。母親が子どもの日記や手紙を平気で見たりします。
家族成員は、家族から立ち去ることが許されず、家族間でのさまざまな葛藤は、「そんなものはない」かのように無視されています。そのくせ、家族は分断され、統一性がありません。「私たちは家族だ」と言う一体感がないのです。家族の中にいても「ここが私の居場所だ」と言う安心感がありません。
健全な家族であれば、そこを立ち去り、また戻ってくることもできるるのですが、機能不全家族では、息苦しさを感じながらもその場にいて、がんじがらめになっています。家族の在り方は、子どもの成長や両親の状況などによって常に変化するのが普通ですが、機能不全家族では、一定の在り方を保とうとし、変化に抵抗します。きまじめでユ-モアのセンスがありません。笑ってガスぬきをすることができないのです。
こうした家族を守ろうという努力を続けるうちに、家族成員はそれぞれに一定の役割にはまり込み、それを演じ続けることになります。その役割分担は強固なもので、いったんこれにはまってしまうと、壊すことが難しくなります。
そんな人は、「親教」の教義にとらわれ、支配されているのです。新興宗教に入っていようがいまいが、ふるまいや態度はよく似ています。
オウム真理教の信者たちが、よくテレビに出ていた頃、私は「なんだか、私のところにきている患者さんたちとそっくりだな」と思ったものです。こういう人たちを私は「神を求める若者」と呼んでいます。
第一章で触れた「機能不全家族」とは、この「親教」に強く支配された家族です。そこには、全体主義国家やカルトによく似たシステムがみられます。
たとえば、機能不全家族には、「強固なル-ル」があります。「お父さんがお酒を飲んでお母さんをなぐったことは、他の人にしゃべってはいけない」というようなル-ルです。これは、「家族に共有されている秘密」にもつながります。
又、家族に他人が入り込むことに抵抗します。風通しが悪いのです。たくさんの人が遊びにきたり、他の家族のもとへ遊びに行く、というオ−プンな雰囲気ではありません。反対に家族どうしの結びつきは強く、それぞれのプライベ-トがありません。母親が子どもの日記や手紙を平気で見たりします。
家族成員は、家族から立ち去ることが許されず、家族間でのさまざまな葛藤は、「そんなものはない」かのように無視されています。そのくせ、家族は分断され、統一性がありません。「私たちは家族だ」と言う一体感がないのです。家族の中にいても「ここが私の居場所だ」と言う安心感がありません。
健全な家族であれば、そこを立ち去り、また戻ってくることもできるるのですが、機能不全家族では、息苦しさを感じながらもその場にいて、がんじがらめになっています。家族の在り方は、子どもの成長や両親の状況などによって常に変化するのが普通ですが、機能不全家族では、一定の在り方を保とうとし、変化に抵抗します。きまじめでユ-モアのセンスがありません。笑ってガスぬきをすることができないのです。
こうした家族を守ろうという努力を続けるうちに、家族成員はそれぞれに一定の役割にはまり込み、それを演じ続けることになります。その役割分担は強固なもので、いったんこれにはまってしまうと、壊すことが難しくなります。
「親教」のもとで子どもが演じる役割
2008年4月23日 殿方より。 では、その「役割」とはどんなものでしょうか。アメリカのセラピスト、クリッツプバ-グは、アダルト・チルドレン{AC}が家族の中で演じる役割を次のように分類しています。{ウェィン・クリッツバ-グ「アダルト・チルドレン・シンドロ-ム」斎藤学監訳、金剛出版}。ACこそ、もっとも典型的な「親教の信者」と呼んでいいでしょう。
まず「ヒ-ロ-」{英雄}です。
成績のいい子、スポ-ツや音楽のできる子など、世間に高い評価を得られそうな子どもがいると、両親の注目はこの子に集中します。両親の仲の悪さが忘れられ、この子の活躍に家族が一丸となりますので、期待を背負った子どもはますますがんばってしまいます。
「巨人の星」の星飛雄馬は典型的です。飛雄馬ガ本当に野球を好きで、野球を楽しんでいるかどうかなどは無視され、「巨人の星になれ」という親の期待で人生を乗っ取られています。しかも酒を飲んではちゃぶ台をひっくり返す暴力的な父親にギブスまではめられ、「野球ロボット」に仕立てあげられています。児童虐待で通報されてもしかたないような状況です。
この「ヒ-ロ-」の反対の役割を担っているのが、「スケ-プゴート」(犠牲の山羊)です。
病気をしたり、問題を起こして学校に呼び出されたり、近所の人が怒鳴り込んできたりと、何かと騒ぎを起こすのはこの子です。
家族たちは、「この子さえいなければうちは平和なのに」と思うのですが、じつはその逆で、この子が問題を一身に背負ってくれているおかげで、家族の崩壊が防がれているのです。この子の非行問題で家族が頭を悩ませている間、家族はバラバラにならずにすみます。そこでこの子はがんばって悪さをしているわけで、ヒ-ロ-ががんばって秀でていようとするのと裏表なのです。
こうした注目を浴びる子どもたちの陰に、「ロスト・ワン」(いない子)と呼ばれる役割の子どもがいます。
目立たず、静かで、忘れ去られているような子どもです。極端な例としては、食事どきにいなくても途中まで気づかれず、「あら、あの子がいなかったわ。どうしたのかしら」といわれるような、いるのかいないのわからない存在感の薄い子です。この子は、家族内の人間関係から距離をとって離れることで、心が傷つくのを防いでいるのです。
「プラケーター」(慰め役の子)と呼ばれる子どももいます。
いつも暗い顔をしてため息をついている母親などの愚痴を聞いては、慰める役の子どもです。
小さなカウンセラーとなって家族や母親にやさしく声をかけてきます。
慰め役に似ていますが、「クラン」(道化役の子)というピエロ役の子もいます。
両親の口げんかなどが始まって家族の中の緊張が高まったとき、突然、とんちんかんな質問をしたり、歌い出したり踊り出したりする子です。おどけたフリで緊張した空気を和らげようとしているのです。
家族のペットのような存在で、本人も楽しんでいるように見えますが、ピエロの仮面の下はとても寂しいものなのです。道化を演じることでしか生きられないのです。
「イネイブラ-」(支え役の子)という働き者の子もいます。
長男や長女がこの役になることが多く、「偽親」とも呼ばれます。女の子なら、頼りない母親に代わって家事をしたり、妹や弟の面倒をみたり、こまごまと世話焼きをします。男の子なら、だらしない父親の代わり、母親を守ろうとがんばります。
この役は、異性の親と、まるで夫婦のような関係ができやすい。「情緒的近親姦」と呼ばれるもので、とくに男親と女の子の場合、実際の近親姦も起こりやすい。
まず「ヒ-ロ-」{英雄}です。
成績のいい子、スポ-ツや音楽のできる子など、世間に高い評価を得られそうな子どもがいると、両親の注目はこの子に集中します。両親の仲の悪さが忘れられ、この子の活躍に家族が一丸となりますので、期待を背負った子どもはますますがんばってしまいます。
「巨人の星」の星飛雄馬は典型的です。飛雄馬ガ本当に野球を好きで、野球を楽しんでいるかどうかなどは無視され、「巨人の星になれ」という親の期待で人生を乗っ取られています。しかも酒を飲んではちゃぶ台をひっくり返す暴力的な父親にギブスまではめられ、「野球ロボット」に仕立てあげられています。児童虐待で通報されてもしかたないような状況です。
この「ヒ-ロ-」の反対の役割を担っているのが、「スケ-プゴート」(犠牲の山羊)です。
病気をしたり、問題を起こして学校に呼び出されたり、近所の人が怒鳴り込んできたりと、何かと騒ぎを起こすのはこの子です。
家族たちは、「この子さえいなければうちは平和なのに」と思うのですが、じつはその逆で、この子が問題を一身に背負ってくれているおかげで、家族の崩壊が防がれているのです。この子の非行問題で家族が頭を悩ませている間、家族はバラバラにならずにすみます。そこでこの子はがんばって悪さをしているわけで、ヒ-ロ-ががんばって秀でていようとするのと裏表なのです。
こうした注目を浴びる子どもたちの陰に、「ロスト・ワン」(いない子)と呼ばれる役割の子どもがいます。
目立たず、静かで、忘れ去られているような子どもです。極端な例としては、食事どきにいなくても途中まで気づかれず、「あら、あの子がいなかったわ。どうしたのかしら」といわれるような、いるのかいないのわからない存在感の薄い子です。この子は、家族内の人間関係から距離をとって離れることで、心が傷つくのを防いでいるのです。
「プラケーター」(慰め役の子)と呼ばれる子どももいます。
いつも暗い顔をしてため息をついている母親などの愚痴を聞いては、慰める役の子どもです。
小さなカウンセラーとなって家族や母親にやさしく声をかけてきます。
慰め役に似ていますが、「クラン」(道化役の子)というピエロ役の子もいます。
両親の口げんかなどが始まって家族の中の緊張が高まったとき、突然、とんちんかんな質問をしたり、歌い出したり踊り出したりする子です。おどけたフリで緊張した空気を和らげようとしているのです。
家族のペットのような存在で、本人も楽しんでいるように見えますが、ピエロの仮面の下はとても寂しいものなのです。道化を演じることでしか生きられないのです。
「イネイブラ-」(支え役の子)という働き者の子もいます。
長男や長女がこの役になることが多く、「偽親」とも呼ばれます。女の子なら、頼りない母親に代わって家事をしたり、妹や弟の面倒をみたり、こまごまと世話焼きをします。男の子なら、だらしない父親の代わり、母親を守ろうとがんばります。
この役は、異性の親と、まるで夫婦のような関係ができやすい。「情緒的近親姦」と呼ばれるもので、とくに男親と女の子の場合、実際の近親姦も起こりやすい。
心の中で鳴り響く「親教」の教義
2008年4月17日 殿方より。 他にも、典型的な役割を演じている子どもはいるでしょう。あなたも「自分はこの役割にそっくりだ」と思ったものはなかったでしょうか。
あるときはテストでいい点をとってきてほめられ、あるときはちょっとした問題で先生に呼び出され、あるときは母親を慰めたり、おどけ役になったりしている。というのなら問題ありません。ひとつの固定した役割にはまって、それ以外の自分が出せなくなっている場合に問題が起きてくるのです。
「本当の自分」は状況に応じて常に変化するものなので、変化しない一定の自分しか表現できないと、息苦しくなり、窒息感を抱きやすい。「演じている自分」は、自発的な感情から生まれるものではなく、父親の顔色をうかがい、母親のご機嫌をうかがってふるまっているものです。こうした役割を演じ続ければ、生き生きした感情を表現することもできず、自分が本当は何をやりたいのかさえわからなくなって当然です。
親の欲望を自分の欲望と勘違いしたまま生きているのですが、どこかウソ臭く、違和感が拭い去れません。けれども、家族はそれぞれの固い役割をとることでバランスができあがっているので、誰かひとりが「いちぬ〜けた」とその役割から降りてしまうと、ガタガタとくずれてしまいます。そこで、お互いに縛り合い,ぬける者がいないように目を凝らして見張り合っているわけです。
また、こうして家族で育ち、一定の役割{偽りの自己}を演じることを身につけてしまった人たちは、その家族からぬけては生きにくい。
「本当の自分」がわからなくなっているので、ひとりでいると何をしていいのかわかりません。子どもの頃から、常に「親の望む自分」を演じてきましたから、常に自分に何かの役割を期待してくれる人がそばにいてくれ、「相手の望む自分を演じる」という仕事がないと、寂しく、不安でたまらないのです。
「ああしなければ」「これではダメだ」という親の声がなくなって、さぁ自分のしたいことをしてもいいのだという状況になっても、本当の自分の声など聞こえません。自分の中に取り込まれたインナ-マザ−ガ、自分自身に「ああしなければ」「これではダメだ」と命令するばかりです。
心の中に鳴り響く親教の教義に従って必死に生きているのですが、自分自身の中身がなく、本当の自分はとても空虚です。その空虚さを埋める相手を急いで見つけ、自分が育ってきたのと同じような安心できる機能不全家族を、新たにつくりあげるわけです。
あるときはテストでいい点をとってきてほめられ、あるときはちょっとした問題で先生に呼び出され、あるときは母親を慰めたり、おどけ役になったりしている。というのなら問題ありません。ひとつの固定した役割にはまって、それ以外の自分が出せなくなっている場合に問題が起きてくるのです。
「本当の自分」は状況に応じて常に変化するものなので、変化しない一定の自分しか表現できないと、息苦しくなり、窒息感を抱きやすい。「演じている自分」は、自発的な感情から生まれるものではなく、父親の顔色をうかがい、母親のご機嫌をうかがってふるまっているものです。こうした役割を演じ続ければ、生き生きした感情を表現することもできず、自分が本当は何をやりたいのかさえわからなくなって当然です。
親の欲望を自分の欲望と勘違いしたまま生きているのですが、どこかウソ臭く、違和感が拭い去れません。けれども、家族はそれぞれの固い役割をとることでバランスができあがっているので、誰かひとりが「いちぬ〜けた」とその役割から降りてしまうと、ガタガタとくずれてしまいます。そこで、お互いに縛り合い,ぬける者がいないように目を凝らして見張り合っているわけです。
また、こうして家族で育ち、一定の役割{偽りの自己}を演じることを身につけてしまった人たちは、その家族からぬけては生きにくい。
「本当の自分」がわからなくなっているので、ひとりでいると何をしていいのかわかりません。子どもの頃から、常に「親の望む自分」を演じてきましたから、常に自分に何かの役割を期待してくれる人がそばにいてくれ、「相手の望む自分を演じる」という仕事がないと、寂しく、不安でたまらないのです。
「ああしなければ」「これではダメだ」という親の声がなくなって、さぁ自分のしたいことをしてもいいのだという状況になっても、本当の自分の声など聞こえません。自分の中に取り込まれたインナ-マザ−ガ、自分自身に「ああしなければ」「これではダメだ」と命令するばかりです。
心の中に鳴り響く親教の教義に従って必死に生きているのですが、自分自身の中身がなく、本当の自分はとても空虚です。その空虚さを埋める相手を急いで見つけ、自分が育ってきたのと同じような安心できる機能不全家族を、新たにつくりあげるわけです。
「親教」信者の特徴 1:行動が周囲の期待に縛られる
2008年4月14日 殿方より。 コメント (2) 「親教」にはまり、「インナ−マザ−」に蝕まれた人がどのような感情を持っているか、その特徴を述べててみましょう。
まず、親教の信者たちは、自分自身が「こうしたい」と思う行動ではなく、周囲が自分に期待しているようにふるまおうとします。
「良い子にしていなければ、うちの子じゃありませんよ」
「人並みにしないと社会から落ちこぼれて、生きていけませんよ」
という親教の教義に従って、世間の期待する「良い子」の自分を演じます。良い子であろうとする以外の自分を出せないので、息苦しく、行動が制限される束縛感を常に抱いています。「世間」の期待といっても、本人が「こう期待されている」と心の中で思い込んでいる「インナ−世間様の期待」です。現実の、本当の周囲の期待とズレている場合も多いのです。
親教にはまっていない人とつき合うときには、親教の教義が通用しません。相手に対する必死の努力は空回りしてしまいます。
相手が期待する自分を演じなければ見捨てられると思うので、相手がどんなサ−ビスをすれば喜ぶかを読みとろうとするが、親教に支配されていない人は、相手に「ああしろ、こうしろ」という強い要求がない。そこではたと困ってしまうのです。
「あなたはあなたで好きなようにしててくれればいい」
などといわれると、もうどうしていいかわからず、「この人は自分を必要としていないのではないか」と不安になる。自分が他人にどう思われているか、他人の評価をとても気にしますし、評価されないと傷つきやすいのです。
彼らの行動は、自分自身の欲望や好き嫌いの感情、倫理観にもとづいたものではなく、世間が「いい」といえば「いい」し、周りの雰囲気を見て「おもしろくなさそう」なら「おもしろくないだろう」というものです。
その結果、何が正当かという確信がもてず、いつも「これでいいのだ」と思うのですが、「それではダメだ」といわれるのが怖くてビクビクしています。何がよくて何が悪いのか、自分はどうしたいのか、したくないのか、自分で決められないのです。
また、親ならこうだろう、周囲はこう思っているのではないかという恐れと不安を自分の中に取り込んでいるので、自分で自分を責めます。非常にまじめで、心の中では情け容赦ないほどの自己評価をしています。その情け容赦ない批判は他人にもむけられています。いってみれば、自分にも他人にも厳しいのです。
まず、親教の信者たちは、自分自身が「こうしたい」と思う行動ではなく、周囲が自分に期待しているようにふるまおうとします。
「良い子にしていなければ、うちの子じゃありませんよ」
「人並みにしないと社会から落ちこぼれて、生きていけませんよ」
という親教の教義に従って、世間の期待する「良い子」の自分を演じます。良い子であろうとする以外の自分を出せないので、息苦しく、行動が制限される束縛感を常に抱いています。「世間」の期待といっても、本人が「こう期待されている」と心の中で思い込んでいる「インナ−世間様の期待」です。現実の、本当の周囲の期待とズレている場合も多いのです。
親教にはまっていない人とつき合うときには、親教の教義が通用しません。相手に対する必死の努力は空回りしてしまいます。
相手が期待する自分を演じなければ見捨てられると思うので、相手がどんなサ−ビスをすれば喜ぶかを読みとろうとするが、親教に支配されていない人は、相手に「ああしろ、こうしろ」という強い要求がない。そこではたと困ってしまうのです。
「あなたはあなたで好きなようにしててくれればいい」
などといわれると、もうどうしていいかわからず、「この人は自分を必要としていないのではないか」と不安になる。自分が他人にどう思われているか、他人の評価をとても気にしますし、評価されないと傷つきやすいのです。
彼らの行動は、自分自身の欲望や好き嫌いの感情、倫理観にもとづいたものではなく、世間が「いい」といえば「いい」し、周りの雰囲気を見て「おもしろくなさそう」なら「おもしろくないだろう」というものです。
その結果、何が正当かという確信がもてず、いつも「これでいいのだ」と思うのですが、「それではダメだ」といわれるのが怖くてビクビクしています。何がよくて何が悪いのか、自分はどうしたいのか、したくないのか、自分で決められないのです。
また、親ならこうだろう、周囲はこう思っているのではないかという恐れと不安を自分の中に取り込んでいるので、自分で自分を責めます。非常にまじめで、心の中では情け容赦ないほどの自己評価をしています。その情け容赦ない批判は他人にもむけられています。いってみれば、自分にも他人にも厳しいのです。
ただ悲しくて、空しい やはり喜びもつかの間全てが振り出しに戻ってゆく すごろくのように、
三つの頃からしばらくの数年間 男の子として洗脳されていき、女性性というかを 見失いそんな中でも苦痛と苦悩しながら
初潮がきた時の自分の中の恐怖にもにた 焦りと驚きと現実に振り回され 過去を封印して、振る舞いから逐一調教され 訓練しそんなことをさればすするほどに、他の部位に異常をきたし 幻聴に苦しみ耐え切れずいるときは いじめにあってたころは いつか 決めてやるから首洗って待っていろ と体の中の声に身を任せ いじめる側に変われたとき ガキの頃と同じに 虫の声すらだせないくらいに暴れ 脅し すかしの繰り返し でも 幻聴は消えやしない
まぁ なんだかんだでこんな年
まぁまぁ ●ものがきたからしばらくの期間なきあかして 鬱に覆われ無気力になりして 生きていたらやり直せる精神的にだけだろうけれど
私の体の構造女だけれど 妊娠してた間と赤ん坊がいた間は女として大事に扱ってくれたが先はそんなことなくなり自分の母親としてだけの扱い 扱いだぁけエッチが出来る母親
三つの頃からしばらくの数年間 男の子として洗脳されていき、女性性というかを 見失いそんな中でも苦痛と苦悩しながら
初潮がきた時の自分の中の恐怖にもにた 焦りと驚きと現実に振り回され 過去を封印して、振る舞いから逐一調教され 訓練しそんなことをさればすするほどに、他の部位に異常をきたし 幻聴に苦しみ耐え切れずいるときは いじめにあってたころは いつか 決めてやるから首洗って待っていろ と体の中の声に身を任せ いじめる側に変われたとき ガキの頃と同じに 虫の声すらだせないくらいに暴れ 脅し すかしの繰り返し でも 幻聴は消えやしない
まぁ なんだかんだでこんな年
まぁまぁ ●ものがきたからしばらくの期間なきあかして 鬱に覆われ無気力になりして 生きていたらやり直せる精神的にだけだろうけれど
私の体の構造女だけれど 妊娠してた間と赤ん坊がいた間は女として大事に扱ってくれたが先はそんなことなくなり自分の母親としてだけの扱い 扱いだぁけエッチが出来る母親
じめつといわれても、やられてもかまわない、
今私は、生活保護をうけています。居候が、もう2年半いすわっています。北海道わしょろのひと、自分だけを守ることについては、天下一品
北海道家庭学校で照るからってどぉが偉いの?
東京でいったら練鑑にそうとうするところだそうだ。青梅に6年なる娘がいるなんて、関係ないのじゃないのか?
八王子にスタイルのよかった元奥さんがいるのが、私にかんけいあるのか?
毎晩毎晩、そんな話で、おかしくなりそうだよ。
でもみかたをかえれば、こんな前に進ませないような話だけ、してりゃ女に逃げられて」あたりまえじゃん。
自分が変なのに、いい加減気がつけよ。
もう出ていけといってるのに、「お前にいくら使ったと思ってんだよ」別にホ−ムレスになる寸前でいて、私の家に入ってきたのってあなたでしょうが?
寮生活しか知らないようだから、普通の賃貸家作の生活はまるっきり知らないに等しいから、しかたないけれどね。
私よりいい年なんだからさぁ、周りの人を脅迫しまくるなよ。
今私は、生活保護をうけています。居候が、もう2年半いすわっています。北海道わしょろのひと、自分だけを守ることについては、天下一品
北海道家庭学校で照るからってどぉが偉いの?
東京でいったら練鑑にそうとうするところだそうだ。青梅に6年なる娘がいるなんて、関係ないのじゃないのか?
八王子にスタイルのよかった元奥さんがいるのが、私にかんけいあるのか?
毎晩毎晩、そんな話で、おかしくなりそうだよ。
でもみかたをかえれば、こんな前に進ませないような話だけ、してりゃ女に逃げられて」あたりまえじゃん。
自分が変なのに、いい加減気がつけよ。
もう出ていけといってるのに、「お前にいくら使ったと思ってんだよ」別にホ−ムレスになる寸前でいて、私の家に入ってきたのってあなたでしょうが?
寮生活しか知らないようだから、普通の賃貸家作の生活はまるっきり知らないに等しいから、しかたないけれどね。
私よりいい年なんだからさぁ、周りの人を脅迫しまくるなよ。
このとしになってまで、こんなに、後悔しなきゃいけないなんて、女
諦めないとならないなんて、仕方ないか、私みたいな女がいるからこそ
そうじゃない人がいるのが事実なのですね。
犬・猫とともに、畜生扱いに耐えて生きながら得なければならないのだろう。
それをきらっても仕方ない、その人が、私に排卵がなくなるのをまって、
私の家にいすわっているのだから・・・・。
諦めないとならないなんて、仕方ないか、私みたいな女がいるからこそ
そうじゃない人がいるのが事実なのですね。
犬・猫とともに、畜生扱いに耐えて生きながら得なければならないのだろう。
それをきらっても仕方ない、その人が、私に排卵がなくなるのをまって、
私の家にいすわっているのだから・・・・。
情けない世の中に・・
2007年2月10日 殿方より。 なったもんだよ!!せめて、十五年前くらいの世の中にならないのかしら。
若い男と言われるやつらがどうなっちゃたの?
子種がねぇ奴の多いこと、五体満足というのは、外見だけでやんの!!
まぁ、ベイビーのころからの食生活から問題ありだからしょうがないか〜。
エッチは疲れるらっしぃ本心は・・できる事ならときたままにしてほしいだと・・・・ざけろちゅうの、だぁ
若い男と言われるやつらがどうなっちゃたの?
子種がねぇ奴の多いこと、五体満足というのは、外見だけでやんの!!
まぁ、ベイビーのころからの食生活から問題ありだからしょうがないか〜。
エッチは疲れるらっしぃ本心は・・できる事ならときたままにしてほしいだと・・・・ざけろちゅうの、だぁ
コメントをみる |

「親教」信者の特徴2:適正な自己評価ができない
2006年8月31日 殿方より。 親教に蝕まれている人は、「自尊心」を奪われています。自分の考えることや判断は、いつもインナーマザーに「ダメだ」といわれているので、「自己評価」がとても低い。どんなに美人でも、「こんな顔では愛されない」と心底信じている人もいます。
もともと他人の評価が基準になっているので、自分の評価はアテにならなず、自分が信用できないのです。
けれども、他人の評価をすべて取り入れたら、とてつもない完璧主義におちいることになります。すべての人に「すばらしい」とほめられることなどありえません。どんなに完璧にやっても、「ちょっとあそこがまずい」「もう少しこうしたらよかったのに」ということになります。
自分が現実にできることには限界があるのですから、達成したことを自分できちんとほめてあげればいいのですが、それができません。
何をやっても厳しい「世間様」の批判の声が聞こえてくるので、彼らは何もできなくなります。すべて完璧にできないなら、やらないほうがマシだと考えてしまう。他人に少し批判されただけで、ひどく非難されたように感じてしまう。やればやるほど自己評価が下がる。何かをするのが怖くなる。やんなければこれ以上、自分を傷つかない。結局、何かに挑戦することを最初からあきらめ、あるいは途中で放棄してしまいます。
突然仕事を辞めてしまったり、何日も家に閉じこもったり、他人から見たら理解できない行動をとる人がいますが、その裏にあるのは、「親教」のマインドコントロ−ルなのです。常に内心の批判の声に怯えているので、他人のちょっとした言葉がきっかけになって、極端な行動を起こしてしまいます。自殺を図ったり普段はおとなしそうな人が、突発的に暴力事件を起こすこともあります。
逆に、非常に尊大で威張っていて、誇大妄想を持つ人もいます。これもじつは、健全な自己評価、健全な自信のなさに由来します。
彼らは、自分の中の「親」とセットになった「幼児」です。幼児はナルシシスティックで、自分の限界を知らず、自分にはなんでも可能で、すべてが自分の思いどおりにいくものだと信じています。けれども、成長するにつれて、近所のガキ大将でケンカで負けたり、成績で評価されたり、女の子にふられたりして、適度な挫折を経験しながら、現実の自分が万能ではないことを学習していきます。そんな自分でも十分生きていけるし、そんな自分でも十分愛されることがわかっていくのです。
ところが親教の信者は、まだ自己愛にひたった幼児のままでありたい人たちです。大人としての自分が、そうたいしたことはないとは認めたくありません。他人に、たいしたことのない自分を知られてしまうのが怖いので、必要以上に自分を高く見せようと高慢にふるまいます。
「オレは、他のやるらとは違うんだ」と周囲の人間を無知、無能とバカにし、罵ります。こうして、彼の周りにいてくれる人を差別しているのです。彼の罵りを支持してくれ、「貴方はすばらしい」といってくれる人とだけつき合いたい。それでなければ不安なのです。自分が世界の中心にいないと不機嫌になってしまう幼児と同じです。
ある程度以上の実力や能力がある人は、社会でもこれで通用する場合がありますが、社会で通用しないと知っている人は、会社では周囲に媚びて、異性関係や家庭で高慢にふるまうこともあります。社会で傷ついた自尊心を、自分より弱そうな女性や子どもに威張ることで取り戻そうとしている男性はけっこう多いのではないでしょうか。
女性のほうも、「女は男をたてるもの」と言う世間の期待を取り入れて、こんなガキのような男性に、「お父さまはご立派で」などといっては、そのナルシシズムにエサを与えてあげていることが多いでしょう。 このような傲慢さを身につけてしまった人にとっては、他人に頭を下げたり、謝罪したり、助言を求めるのは至難の技です。ですから、自分の態度によって困った事態におちいっても、頑固にこの傲慢さを捨てられないのです。
もともと他人の評価が基準になっているので、自分の評価はアテにならなず、自分が信用できないのです。
けれども、他人の評価をすべて取り入れたら、とてつもない完璧主義におちいることになります。すべての人に「すばらしい」とほめられることなどありえません。どんなに完璧にやっても、「ちょっとあそこがまずい」「もう少しこうしたらよかったのに」ということになります。
自分が現実にできることには限界があるのですから、達成したことを自分できちんとほめてあげればいいのですが、それができません。
何をやっても厳しい「世間様」の批判の声が聞こえてくるので、彼らは何もできなくなります。すべて完璧にできないなら、やらないほうがマシだと考えてしまう。他人に少し批判されただけで、ひどく非難されたように感じてしまう。やればやるほど自己評価が下がる。何かをするのが怖くなる。やんなければこれ以上、自分を傷つかない。結局、何かに挑戦することを最初からあきらめ、あるいは途中で放棄してしまいます。
突然仕事を辞めてしまったり、何日も家に閉じこもったり、他人から見たら理解できない行動をとる人がいますが、その裏にあるのは、「親教」のマインドコントロ−ルなのです。常に内心の批判の声に怯えているので、他人のちょっとした言葉がきっかけになって、極端な行動を起こしてしまいます。自殺を図ったり普段はおとなしそうな人が、突発的に暴力事件を起こすこともあります。
逆に、非常に尊大で威張っていて、誇大妄想を持つ人もいます。これもじつは、健全な自己評価、健全な自信のなさに由来します。
彼らは、自分の中の「親」とセットになった「幼児」です。幼児はナルシシスティックで、自分の限界を知らず、自分にはなんでも可能で、すべてが自分の思いどおりにいくものだと信じています。けれども、成長するにつれて、近所のガキ大将でケンカで負けたり、成績で評価されたり、女の子にふられたりして、適度な挫折を経験しながら、現実の自分が万能ではないことを学習していきます。そんな自分でも十分生きていけるし、そんな自分でも十分愛されることがわかっていくのです。
ところが親教の信者は、まだ自己愛にひたった幼児のままでありたい人たちです。大人としての自分が、そうたいしたことはないとは認めたくありません。他人に、たいしたことのない自分を知られてしまうのが怖いので、必要以上に自分を高く見せようと高慢にふるまいます。
「オレは、他のやるらとは違うんだ」と周囲の人間を無知、無能とバカにし、罵ります。こうして、彼の周りにいてくれる人を差別しているのです。彼の罵りを支持してくれ、「貴方はすばらしい」といってくれる人とだけつき合いたい。それでなければ不安なのです。自分が世界の中心にいないと不機嫌になってしまう幼児と同じです。
ある程度以上の実力や能力がある人は、社会でもこれで通用する場合がありますが、社会で通用しないと知っている人は、会社では周囲に媚びて、異性関係や家庭で高慢にふるまうこともあります。社会で傷ついた自尊心を、自分より弱そうな女性や子どもに威張ることで取り戻そうとしている男性はけっこう多いのではないでしょうか。
女性のほうも、「女は男をたてるもの」と言う世間の期待を取り入れて、こんなガキのような男性に、「お父さまはご立派で」などといっては、そのナルシシズムにエサを与えてあげていることが多いでしょう。 このような傲慢さを身につけてしまった人にとっては、他人に頭を下げたり、謝罪したり、助言を求めるのは至難の技です。ですから、自分の態度によって困った事態におちいっても、頑固にこの傲慢さを捨てられないのです。
「親教」信者の特徴3:適正なNOがいえない
2006年8月31日 殿方より。 親教の信者は、「ノー」をいうのがヘタです。自分が拒否したら相手にも拒否される、一度でもノーをいってしまったら、もう見捨てられるような気がするのです。ノーがいえないために、ウソにウソを重ねることもあります。行動にも一貫性がありません。
きっぱりノーをいえずに他人のいいなりになっているうちに、思わぬ事件や犯罪に巻き込まれがちです。はっきりせず曖昧で、あとから「そんなつもりはなかった」などといって無責任です。
また、我慢に我慢を重ねて、大爆発を起こすこともあります。
イヤなことをイヤといい、してもらいたいと思うことをきちんと伝えられないとなれば、結局、人間関係が面倒になってきますので、ひきこもらざるえなくなる。
彼らの人間関係は、決して親密ではありません。いつもどちらかが上でどちらか下かをはかっています。本当の自分が出せず、適度な要求を伝えることもできませんから、人とつき合っていても、その間には高く厚い壁があり、孤独です。実際にひきこもる人もいますし、表面上は社交的でも、心は孤独のカプセルに入っている人もいます。
そうやって自分から他人を遠ざけ、「オレは他人とは違う」といって孤立しながら、寂しがります。寂しいのなら、心の敷き居を低くしてありのままの自分で他人とふれ合えればいいのですが、それができません。弱みを見せたらバカにされると思うのです。
対等な関係であれば、弱みを見せ合っても平気なのですが、親教の信者は、相手が「下」で自分が「上」だと思えば、相手をバカにし、いじめて喜ぶ。常に屈辱感を晴らす機会をうかがっている。そういう世界観の中で生きていますから、自分の弱みを見せればやられると思い、固い殻でよろっているのです。
また、自分が適正にノーがいえない結果、相手の「ノー」も適正に読みとれなくなっています。拒否されたわけでもないのに「拒否された」と過剰反応したり、逆に、きちんとノーをいわれているのに認めたくなくて、結局相手から手ひどい「ノー」を引き出してしまうこともあります。
お互いが気持ちよくつき合える適度な距離をはかり合って、親密な関係をつくっていくことができないのです。「引用」まっさにそのとうりまいってしまうま!!今がまさにその状態、私も小物だと思ったりするが、二つ以上年上なのに、ここまで小物だったとわトリプルショーック
きっぱりノーをいえずに他人のいいなりになっているうちに、思わぬ事件や犯罪に巻き込まれがちです。はっきりせず曖昧で、あとから「そんなつもりはなかった」などといって無責任です。
また、我慢に我慢を重ねて、大爆発を起こすこともあります。
イヤなことをイヤといい、してもらいたいと思うことをきちんと伝えられないとなれば、結局、人間関係が面倒になってきますので、ひきこもらざるえなくなる。
彼らの人間関係は、決して親密ではありません。いつもどちらかが上でどちらか下かをはかっています。本当の自分が出せず、適度な要求を伝えることもできませんから、人とつき合っていても、その間には高く厚い壁があり、孤独です。実際にひきこもる人もいますし、表面上は社交的でも、心は孤独のカプセルに入っている人もいます。
そうやって自分から他人を遠ざけ、「オレは他人とは違う」といって孤立しながら、寂しがります。寂しいのなら、心の敷き居を低くしてありのままの自分で他人とふれ合えればいいのですが、それができません。弱みを見せたらバカにされると思うのです。
対等な関係であれば、弱みを見せ合っても平気なのですが、親教の信者は、相手が「下」で自分が「上」だと思えば、相手をバカにし、いじめて喜ぶ。常に屈辱感を晴らす機会をうかがっている。そういう世界観の中で生きていますから、自分の弱みを見せればやられると思い、固い殻でよろっているのです。
また、自分が適正にノーがいえない結果、相手の「ノー」も適正に読みとれなくなっています。拒否されたわけでもないのに「拒否された」と過剰反応したり、逆に、きちんとノーをいわれているのに認めたくなくて、結局相手から手ひどい「ノー」を引き出してしまうこともあります。
お互いが気持ちよくつき合える適度な距離をはかり合って、親密な関係をつくっていくことができないのです。「引用」まっさにそのとうりまいってしまうま!!今がまさにその状態、私も小物だと思ったりするが、二つ以上年上なのに、ここまで小物だったとわトリプルショーック
「親教」信者の特徴4:嫉妬深く、相手を束縛する
2006年8月30日 殿方より。 ガードが高く防衛心が強く、その結果とても寂しい彼らは、孤独から逃れるために、自分をおびやかさない相手を見つけると、その相手にしがみつきます。それは自分より弱い人であったり、自分に頼ってきたり、自分の世話を必要とする人です。そういう相手を、自分から離れられなくなるようにコントロールしていきます。
相手にベタベタとまとわりつき、サービスしたり、世話をしたりして、一見「親密な」関係をつくろうとします。けれども、それは本当の親密さや本当の愛情ではなく、自分のそばから離れないペットに仕立てあげようという「支配欲」なのです。
親が子どもを、本当の愛情ではなく、ペットやお人形として支配しようとするところから「親教」のマインドコントロールは始まります。「おまえのためを思って」という言葉で子どもの心に侵入する。この教務に乗っ取られた人たちは、そのような関係が「愛情」だという信念のもとに自らも育ってきていますから、「あなたが好きだから」「キミのためを思って」という言葉で相手を支配しコントロールし束縛します。宗教の信者が、自分の信じる幸せになる壷だの印鑑だのを相手に勧めるのと同じです。本人はそれが本当にすばらしいと信じ、それを買うことが相手の幸せにつながると信じているのですが、勧められているほうはこまります。自分の信じる教義だけが正しいという狭い世界観ですから、相手には相手の幸せがあることがわかりません。
けれども支配しコントロールするほうは、それが愛だと思っています。支配されるほうもそれを愛情だと勘違いするところから、次の支配が繰り返されます。それは愛情ではなかったと認めるところから、親教のマインドコントロールを解く作業が始まるのです。
支配欲は嫉妬を生みます。親教に心を乗っ取られた人たちは、たいへん嫉妬深い人たちです。
そして、嫉妬の深さを愛情の大きさと誤解している。確かに、愛情には嫉妬がともないます。人間の愛情関係は、母親との関係から始まります。赤ちゃんには、母親の愛を独占したい、母親のおっぱいを独占したいという気持ちがあって当然です。自分が生き残っていくために必要だからです。
けれども、いつまでも母親と赤ちゃんのような愛情関係しか持てないでいると、大人の人間関係は長続きしません。親教の信者たちは嫉妬心、ねたみ、ひがみが強いので、男女間の混乱が多く、仕事上の人間関係でも軋轢が起こりやすいのが特徴です。
阿部定は、不倫関係にあった恋人が妻のもとに帰ることに嫉妬して、彼を永遠に自分だけのものにしておくために殺害し、性器を切りとります。支配欲が殺人にまで発展してしまった。そのような嫉妬心と独占欲を本当の愛情といえるでしょう。
相手がいつも自分のコントロール下にいないと不安だという人は、結局、その嫉妬心と束縛で、生き生きした相手に感情を殺してしまいます。
豊かで親密なコミュニケーションが持てれば、確かな心のふれ合いや交流を感じられますから、相手がいつもそばにいなくても、「自分のもの」にしなくても、その関係を楽しめます。けれども親教の信者にはそれができないので、相手が離れていこうとしたり、少しでも自分のほうを向いていなかったりすると、しがみついてしまいます。
人間は、束縛されなくても、いっしょにいて楽しければ、「またこの人と会って過ごしたい」と思うのです。反対に、相手の支配を感じると息苦しく、いっしょにいても伸び伸びと楽しめません。まともな神経の持ち主であれば逃げ出したくなるでしょう。
親教の信者には、束縛し合わなくてもいっしょにいられるということがわかりません。嫉妬深いゆえに相手に敬遠され、そこでますます好きな相手に逃げられないように束縛しようとする、という悪循環におちいっています。
相手にベタベタとまとわりつき、サービスしたり、世話をしたりして、一見「親密な」関係をつくろうとします。けれども、それは本当の親密さや本当の愛情ではなく、自分のそばから離れないペットに仕立てあげようという「支配欲」なのです。
親が子どもを、本当の愛情ではなく、ペットやお人形として支配しようとするところから「親教」のマインドコントロールは始まります。「おまえのためを思って」という言葉で子どもの心に侵入する。この教務に乗っ取られた人たちは、そのような関係が「愛情」だという信念のもとに自らも育ってきていますから、「あなたが好きだから」「キミのためを思って」という言葉で相手を支配しコントロールし束縛します。宗教の信者が、自分の信じる幸せになる壷だの印鑑だのを相手に勧めるのと同じです。本人はそれが本当にすばらしいと信じ、それを買うことが相手の幸せにつながると信じているのですが、勧められているほうはこまります。自分の信じる教義だけが正しいという狭い世界観ですから、相手には相手の幸せがあることがわかりません。
けれども支配しコントロールするほうは、それが愛だと思っています。支配されるほうもそれを愛情だと勘違いするところから、次の支配が繰り返されます。それは愛情ではなかったと認めるところから、親教のマインドコントロールを解く作業が始まるのです。
支配欲は嫉妬を生みます。親教に心を乗っ取られた人たちは、たいへん嫉妬深い人たちです。
そして、嫉妬の深さを愛情の大きさと誤解している。確かに、愛情には嫉妬がともないます。人間の愛情関係は、母親との関係から始まります。赤ちゃんには、母親の愛を独占したい、母親のおっぱいを独占したいという気持ちがあって当然です。自分が生き残っていくために必要だからです。
けれども、いつまでも母親と赤ちゃんのような愛情関係しか持てないでいると、大人の人間関係は長続きしません。親教の信者たちは嫉妬心、ねたみ、ひがみが強いので、男女間の混乱が多く、仕事上の人間関係でも軋轢が起こりやすいのが特徴です。
阿部定は、不倫関係にあった恋人が妻のもとに帰ることに嫉妬して、彼を永遠に自分だけのものにしておくために殺害し、性器を切りとります。支配欲が殺人にまで発展してしまった。そのような嫉妬心と独占欲を本当の愛情といえるでしょう。
相手がいつも自分のコントロール下にいないと不安だという人は、結局、その嫉妬心と束縛で、生き生きした相手に感情を殺してしまいます。
豊かで親密なコミュニケーションが持てれば、確かな心のふれ合いや交流を感じられますから、相手がいつもそばにいなくても、「自分のもの」にしなくても、その関係を楽しめます。けれども親教の信者にはそれができないので、相手が離れていこうとしたり、少しでも自分のほうを向いていなかったりすると、しがみついてしまいます。
人間は、束縛されなくても、いっしょにいて楽しければ、「またこの人と会って過ごしたい」と思うのです。反対に、相手の支配を感じると息苦しく、いっしょにいても伸び伸びと楽しめません。まともな神経の持ち主であれば逃げ出したくなるでしょう。
親教の信者には、束縛し合わなくてもいっしょにいられるということがわかりません。嫉妬深いゆえに相手に敬遠され、そこでますます好きな相手に逃げられないように束縛しようとする、という悪循環におちいっています。