Kこさんは、完璧に親の世話を受けている状態なのですが、本人の意識では、「自分がいないと、この家はダメになる」と思っています。自分が病気でもやっていれば、かろうじて家族がつながっているけれど、そうでなければバラバラになって、両親も離婚してしまうかもしれないと思っている。
 父親はパチンコが趣味で、自分の気晴らしにを持っています。でも、母親には何もない。両親の間には会話もありません。「お母さんは自分のたちを育てることで人生のほとんどを費やしてきたのだから、かわいそう。だからお母さんを支えてあげなければいけない」。そう思うとパニックになって、過食するほかなくなってしまうのです。
 K子さんはいろいろ問題を起こしているのですが、長い目で見れば、体を張って両親を治療の場に引き出し、やはり歪んでいた両親の関係もいっしょに治療しようとしているのでしょう。K子さんが私のもとで治療を受け始めてから、母親であるJ子さんも、自分の夫婦関係や両親との関係を改めて考えるようになりました。「私たち夫婦は、子どもたちにってなぜかほうっておけない心配な存在らしい。何が問題だったのだろうか」と。
 そうやって考え直してみると、J子さんと夫もまじめには生きてきましたが、心の豊かさがなかった。J子さん自身、ずっと「お母さんはかわいそう」と母親をたすけ、「良い子」をやってきた。母親を安心させるために父親と同じ鉄道員と結婚した。けれども、夫とは語り合うこともない。夫婦関係は干からびていたといっていいでしょう。その干からびが娘の身体に表現されるようになる。J子さん夫婦は、娘の病気のおかげで、初めて面と向かって話し合ったり、二人の関係を考えたりするようになったのです。
 そうしてみると、J子さんは、自分の母親とじつによく似た生活をしていることに気づきました。娘であるK子さんから、「かわいそう」と思われながら生きている。自分では、自分の生活がさほど「かわいそう」とも思っていなかった。もしかしたら、自分の母親もそうだったのかもしれない。
 J子さんは、「お母さんがかわいそう」と思い、懸命に母親を助けてきたつもりでした。けれども、母親は案外、父親に殴られても、「男はそんなものだ」くらいにしか思っていなかったのかもしれない。「早くらくにをさせてあげたい」と思っていたけれど、そんな必要はなかったのかもしれない。自分が幸せになりたければ、自分でなんとかしていければいいのだから。

思うこと

2008年5月21日 日常
 つくづく思う 携帯なんて意味あんのかしら、だれからもメ−ルなんてこないし、返信すらもないのに。
 どんな意味があるのかしら、
 やたら、雨だよ散歩行かれないじゃんよぉ・・

 アレがかわいそう、つまらないだろうなぁ。わたしゃさぶいくてやってらんなぁい  し。
 K子さんも同じです。「お母さんがかわいそう」と思うヒマがあったら、自分のほうがかわいそうだと思ったほうがいい。母親によって麻布に置き去りにされて、過食するためのお金を別の患者さんの財布から盗んでいる。そのほうがよっぽどみじめです。母親を助ける前に、自分で自分を助けてあげたほうがいい。
「お母さんもいろいろあってかわいそうだったけど、でもそれはお母さんの人生だよね。私には私の人生があるのだから、まず自分の幸せを考えなくては」と割り切れれば、病気になどならないのです。ところが、母親と自分が一体化しているので、母親の幸せが私の幸せになってきます。両親が幸せになってくれないと、自分も幸せになれない。どこかに「両親の関係を修復しよう」という考えがあって、だからこそ病気になるのです。
 K子さん自身も、あまり自分のことをかまってくれない夫と結婚しています。両親の関係になど関わらず、自分の夫婦関係を修復すればいいのですが、自分の中の「母親」と「私」が分かちがたくなっているので、どちらか片方だけ修復しようとしてもうまくいきません。わざわざ家族のことなどかえりみない男性を選んで、自分のみじめさを温存し、子どもに同情される「かわいそうな母親」への道をまっすぐ歩んでいたわけです。
 もしも自分を大事にしてくれ、「キミの好きなことをやっていいよ」などという男性と結婚してしまったら、「お母さんがかわいそう」一家の道と違ってしまいます。住み慣れた母親カプセルの世界から出ルことになりますから、不安でたまらないのです。
 自分の好きなことを中心の生き方をすると、なんだかものすごくわがままで、ぜいたくしているよう罪悪感にかられ、自分を責めたくなってしまう。まず、両親が仲良くなって、母親が不幸でなくなってくれないと、自分の幸せを追求する気持ちになれない。そこで病気になっているのです。
 この一家の場合は、「お母さんはかわいそう」の「かわいそうはずし」をしていくことが母親のカプセルはずしであり、治療につながっていきます。
 私の中の「私」、私の中の「母」を分けていくことが、親の生き方にとらわれず、自分自身の人生を形づくる能力につながるのです。

なんだぁ

2008年5月19日 日常
 昨日のメールじゃぁ行く行くモード全開だったのに、

まぁ、低気圧のど真ん中だったみたいだし、仕方ないかぁ。
  
 クリニックつながったばかりの若い子だし、なんだか私が激最悪の頃

いろいろ騒いでくれた○さんのまねしてるようで、かったるいからやめとこ。

 なんだか、あそこにいるとみんなとやたらと、距離がありすぎて苦痛

 だわ。

 どうしょう、でも、病気にうもれた感覚でいるよりゃいいかも、

 どうせ、調子悪くなるときゃ埋もれに行ってるようなもんだもんで。

 
 やったぜぇい、代々木公園ドッグラン・・。

 なかなかいい感じのてゆうかさぁ、僕と遊んでくれそうなのいないし、
 僕と大きさ変わらないのに、やたらと吠えまくりまいるよ・・

 なに勉強してきてるのだろう、こいつら、遊ぶんじゃなくて吠えるだけかよ・・・
 でも、お散歩はいいにゃ、またいこうね・・

 ありがとう・まんま

2008年5月17日 私の中の僕と俺?
 離れていく心情けなさに耐えられない・・

 たぶんお互いに 求め合う事そのものの違いに気づいたのなら、

 時間の無駄にならないために、終わりにしましょう。

 心が腐らないうちに、私は、腐りたくないから、違いすぎることに感

 づいたのなら、お別れしましょう。

 娘に悪戯されてからでは、手遅れになりかねない。

 君の場合は、確信があるから・・、どのように君が騒ごうが人間に

 は、なくて七癖ですから。

 信じがたし・・・・・。だ・か・ら
「インナーマザー」に支配された心 オウム真理教が話題になったとき、「マインドコントロール」という言葉が流行りました。
 オウム真理教の信者たちは、自分で考える自由を失い、オウムの教義に心を支配され、乗っ取られた状態にいました。信者でない人たちにとってみれば、なぜあのような教義(ドグマ)を信じ、殺人まで犯すことをなんとも思わないでいたのか不思議に思います。
 けれども私たちは、自分の心は完全に自由で、何ものにもコントロールされていないといいきれるでしょうか。第二章で見てきたように、自分の意志で結婚相手を選び、自分の意志で仕事を選んだように思っていても、案外、自分の心の中の何ものかに支配されていることもあるのです。
 私たちは、生まれて以来、周囲からいろいろなことを吸収して成長していきます。
「ああいう考え方もある」
「こういう道をとることもできる、こちらのやり方でもよい」
と、さまざまな選択肢の中から自分が選んだのならそれでよいのです。
自分の中で信じるドグマがあっても、状況に応じてはそれを壊してみたり、逃れることもできる。ひとつのドグマでいきづまってきたら、別のドグマに組替える。そういう自由を持っていれば、「支配されている」とはいいません。
 けれども、「これしかない」「こうするしかない」というひとつのドグマにとらわれているなら、「マインドコントロール」されているといえます。自分にとって都合の悪い状況や危険なことになっても、まだそれにこだわり、その考えから逃れられません。そんな状況からは脱してしまったほうがずっと楽なのに、固執し続けることによって息苦しい人生を続けてしまう。
 これは、心の中にいる母親、「インナーマザー」(内なる母)に支配されている状態なのです。
 インナーマザーは、実際の母親とは少し違います。親そのものというより「世間様」といってよいかもしれません。というのは、母親も父親も、「自分の」考えで子どもを教育する前に、「世間様」にひれふしている場合が多いからです。自分の本音では「そのくらいいいんじゃないか」と思っても、「世間様」に後ろ指さされないよう、「世間様」に恥ずかしくないよう、「そんなことをするとご近所に笑われるから、してはいけません」としつける。「良い子母親」をやっているわけですが、子どもも親の意向を汲み取り、「世間様」を取り入れるようになります。親が考えるであろう恐れや不安を、子どもは自分の恐れや不安として取り入れるようになるのです。
 こうして親と同様、「世間様」にひれふす子どもができあがります。彼らにとって「世間様」は教祖なのです。教祖に従うように親が子どもを躾(しつけ)という名目で支配してしまいます。
 これを私は「親教」と呼んでいます。
 親との関係をこの観点から見ていきましょう。あなたも気がつかないうちに、「親教」のマインドコントロールを受けているかもしれません。
「親教」の唱える教義には、たとえば、「人様に迷惑をかけてはいけません」「世間並みからおちこぼれないようにしなさい」「悪いことをしてはいけません」「働かざる者、食うべからず」
 などがあります。「世間並み」ということが大切なので、年齢が重視されます。「その年で」というような考え方です。
 主義主張には「イズム」ガつきます。キリスト教はクリスチャニズム、共産主義はコミュニズムといいますが、世界中の子どもは、まず親にひきこまれてペアレンティズム(親教)の信者となります。
 子どもにとって親は神様です。親教の信者にならなければ、その家族では生きていけません。
 けれども、成長すれば親の考えとは違うところも出てきます。別の考えも取り入れ、自然に自分の考えを形づくり、親の世界からぬけ出してひとりの大人となっていきます。ところが、
 やっぱり一人で男と向き合うのことは。怖いだけじゃなくて

 嫌いなのかも、拒食がおさまってくるとぼんやりと、なにかに気づいたように
なぜ・どうしてここに・いつまでいるんだこの人は、て感じにね

無教養な男程よく吠えるし、邪魔するし、時と場所とか相手の人間性よかに無頓着で、重要じゃないことで、我一番手のが長生きしてる。

ましてや、謙虚さが全くと言っていいくらい(程なんて軽い程度でない。)

 ちらみせの思いやりならまだいいが、思いやりじゃない。
傲慢なだけ、自己都合いやぁ、島国根性丸出しの人は面倒で厄介者が多い。そこに、モラハラがくっついてるようなえげつないやつだったら。

 もう最悪・・・
 あなたは、生きにくさや抑うつ感、無気力などを感じていないでしょうか。友人がたくさんいても寂しさから逃げられなかったり、忙しくても退屈な自分を感じていないでしょうか。いつも同じ問題でわずらわされていたり、これらどう生きていけばいいのかイメ-ジがわかず、いきづまってはいないでしょうか。
 そんな人は、「親教」の教義にとらわれ、支配されているのです。新興宗教に入っていようがいまいが、ふるまいや態度はよく似ています。
オウム真理教の信者たちが、よくテレビに出ていた頃、私は「なんだか、私のところにきている患者さんたちとそっくりだな」と思ったものです。こういう人たちを私は「神を求める若者」と呼んでいます。
 第一章で触れた「機能不全家族」とは、この「親教」に強く支配された家族です。そこには、全体主義国家やカルトによく似たシステムがみられます。
 たとえば、機能不全家族には、「強固なル-ル」があります。「お父さんがお酒を飲んでお母さんをなぐったことは、他の人にしゃべってはいけない」というようなル-ルです。これは、「家族に共有されている秘密」にもつながります。
 又、家族に他人が入り込むことに抵抗します。風通しが悪いのです。たくさんの人が遊びにきたり、他の家族のもとへ遊びに行く、というオ−プンな雰囲気ではありません。反対に家族どうしの結びつきは強く、それぞれのプライベ-トがありません。母親が子どもの日記や手紙を平気で見たりします。
 家族成員は、家族から立ち去ることが許されず、家族間でのさまざまな葛藤は、「そんなものはない」かのように無視されています。そのくせ、家族は分断され、統一性がありません。「私たちは家族だ」と言う一体感がないのです。家族の中にいても「ここが私の居場所だ」と言う安心感がありません。
 健全な家族であれば、そこを立ち去り、また戻ってくることもできるるのですが、機能不全家族では、息苦しさを感じながらもその場にいて、がんじがらめになっています。家族の在り方は、子どもの成長や両親の状況などによって常に変化するのが普通ですが、機能不全家族では、一定の在り方を保とうとし、変化に抵抗します。きまじめでユ-モアのセンスがありません。笑ってガスぬきをすることができないのです。
 こうした家族を守ろうという努力を続けるうちに、家族成員はそれぞれに一定の役割にはまり込み、それを演じ続けることになります。その役割分担は強固なもので、いったんこれにはまってしまうと、壊すことが難しくなります。
 来月は誕生日子作り宣言撤去・撤廃・方針とか指針を最初に戻す。

金作って出てってもらう、引き受け先ができたとしても今年中に

相手が何を思って入籍にこだわるのかは、理解できないし、私にしてみたら単なるいやみか・嫌がらせにしか思えない。もっと言えば恐怖とはきけすら覚える。

ここは、兎に角私と別々ではあるが息子と娘のホ−ムであって、奴は、所詮同居人いうなれば、こうなれば余計に、居候

拒食期でもないのに、食べ物が欲しいとは思わない。「食べられるふりは、疲れる・食べたと思えないのに食べるのもしんどい」

寝るところ・風呂・トイレ電気・ガス・水道水提供してるのだから、金を入れて当たり前で、こちらからの求めがあったとしたら、いたして当然・あちらからの求めには答える義務も責務なし。断固として徹底するのみ・・・。女房の浮気で逃げ回ることしか出来ない、男が置いてきた子どもの事をいつまでもたらたら語ってんじゃねえやい青梅のおかん・加奈。とか八王子のおかんとか、黙って聞いてりゃいいきになるな。
そんなに帰りたきゃ頭下げて帰りやがれってんだこの身の程知らずがぁ------
あ-一ミクロンくらいすっきりしたかも・・・・
 あぁ、誕生日前だから、前もって諦めておきましょう。

43歳が凡人の高齢出産限界期。確かに、前もって聞かされてはいたけれどこれほどまでに、非協力的な人種だとははなはだ、

 計画性のもちぬしだから、ある特殊な意味で注意・注意なさぬ仲の娘は男からしたら気持ちいいらしいから、

 ちなみに、クリニックの患者の半数以上が女性で、その又半数が、性虐待経験者でもって、大半が義理にあたる男親が占めている。

 私も、親子で犠牲者にはなりたくはないから。
注意・注意にこしたこたない。

なんと

2008年5月12日 日常
 私は、クリニックを経由して、児童相談所に子どもを託している。

 虐待の犠牲者であって、母親でもあった。

 私自身、子どもらといたときに(暮らしていた時)環境がかわり気持ちは、外出したいのだが、体が重くどうにもならなかった 時期が合った。

 子どもの方も不登校が始まり、でも、子どもは家にいるということがなく いたって学校には行きたいんだからね という。

 私には理解できず、自分を責めたりもしていた、がしかし、私もちょうど、転向を気に学校に行かれなかったじきがあったが、聞く耳をもってもらえず「お前のせいだ」と殴られていたのだ
 それが怖くて遅刻はしていたが、学校は行っていたのでどのようにたいしょしていいかわからなかった。
 

 あるつてから、クリニックにかようこととなり私の中の重石をきずいてくれた。

 子どもが危ないとのことで、離れた

 言葉の意味するところを理解するにあたり数年かかってはいるが、

 意味がわかり、後は行動が伴えば・・・

 がしかし、なかなかやりにくいさぎょうではあった。

 そんなこんなで、児童相談所のワ-カ-が変わったので安心している

 五年も面会がなかったことがくやまれてならない。
 最近 僕との外出をママの方がやたら楽しみにしてる。

 まぁ、僕としては 毎日が ワクワクもんでいいけどぉでもたまにがっくりもしゃぁないけれど、

 お願いがあるあのねぇ、うんこした後に 僕の気持ちというか 気分というかぁを今ひとつ考えてくれ 頼むよ。

 たしかに 僕はまだ二歳だし体は  でかっ くて人がさえて通る。

 でもね、ママ お願いした後にやたら「座れ」って出来うることならママの方こそ「待て」 うんこしたぞって言う余韻なしには、「座れ」
はやめてぇぇ・・。
でも、座る僕がいる・・・・?つらぃ
 
 ママは、僕との散歩は大変なのに頑張って僕を引いてくれる。
 ママは、僕の前でびっくりすような声で時たま、いい子いいこしながら泣く、お姉ちゃんとかお兄ちゃんとかって、そんな時離れてあげる。

 僕に出来るのはそれだけ・・・。

 ママは時たまお散歩してても泣く、右足が痛いって「ごめんね、足が潰されなかったれママとかけっこできるのにね」って、僕は犬だからリ−ドから伝わってくる合図で走りを止める・・・。

 ママは、お洒落さんじゃないときがある。
僕のうんこをとる時、すぐこれ誰のと鼻先にもってくるし、地べたに座り込んで拾うことがある。
ママは、気取らないのではなく・・・気取ってらんないといってる。
 やたら、もうとかいいながら・・ふと犬ながらも思い悩む牛と散歩してるのだろうかなって。
「アレぇ、いつもありがとう」って言ってくる。チクンの日はとくに、
 僕はお留守番したときのご褒美がなにより 輝いて見える・・。

2008年5月10日 子供と犬猫と私
 僕は、ママが好き

 従うことの切なさと喜んでくれるから

 僕が嫌いなこともわかっていてくれるから

 好きなことは、外での○コと○○コ、ボール僕の目の高さのお友達と

 一対一で遊ぶこと ママからもらえるブロッコリーキャベツ人参大根かぼちゃ
じゃがいも

 嫌いなことママに慣れなれしいお友達、すぐに吠えるお友達とそのこのまま。
 やけに今日は、朝っぱらから元気だったはずが。。。。

整理できた会話ができない、不安で硬直・悲観的・被害者意識・被害妄想

らしくない、なにもかもが恐怖に味の素

とどめに、フラッシュバック

歩いてるという感覚すら薄れてく。

あまりそう、渋谷とか新宿よりは、はるかに静かなのに雑踏の中に取り残されてる感覚に潰されそうになる。

 忘れてた感覚畜生、跡付けだあぁ、疲れてしまう。

後からお通し

2008年5月8日 日常
 どうもネガティブ気にしない気にならなぁい・・・体がうごかなぁい

やたら怖ぁい・・

考えてみる・・みなくてもわかってま〜す。

 元の家族みんなでスリップしてるって聞いたからでぇす。

酒乱が二人・○注一人、そして、ついにでました、睡眠障害こんなにアディクションもちばかり、今更露呈されても・・・・

 
小児性愛者まで、身内にいたたぁ信じられないけど、それが、私の中の確信的中だと現実なのね、ある意味情けない。

 その人たちの今はなにしてるのかは、秘密 爆笑だね・・・・・つかまっちまえばいいのに。

無意味

2008年5月7日 日常
 夜中に末の妹からの電話・・

 あちらサイドのお話、もう、六十も過ぎた母が又も酒乱に返り咲いてると・・・

 二番目の妹もついに母と修羅場とスリップ、所詮の話題は、しもじもの悪たい話

 嘘つきの構図を確認させてもらったようなもの。。

 見栄・虚栄心あっちが下というものだから、嘘という仮面を被らずにはいられない、

 であっても、所詮虚栄心のできうる他人のせい、中身と外面のない奴差のおたわごと・・

 でもそれらが、兄弟であり親たちなのだから、始末にならない。

 ここのところ、意味をなさない話題に巻き込まれてる。。

 ただ、私の様子をうかがうだけの人間しか寄ってこない。

 こうなると生きているということが、空しさとダブルからダイブとかに摩り替わり生きることを拒否るから、ややこしい・

むな

2008年5月6日 月下美人
 私は、自分に嘘がつけるのだろう

本心は、今ごろどこを彷徨ってるのか・・・?

何も考えては、おらぬが本当の心というものは。いつからいづこえ・・

ぁあ 空しい  あぁ 空しい

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